♯1.職場や学校にいる(自分にとって)嫌な人に対して、どう思い対処するか ♯2.大人になるということ
♯
実家ってどうですか?
僕はいま嫌ですね。少し前まで楽だし、いいなとか思ってました。
何が嫌かというと暇であること。家事をしなくていいこと。主にこの2点です。
暇なのはしょうがない。どこへ行っても暇ではなくなるだけなので。
現在、趣味に行き詰まりを感じているせいか、余計に暇なんでしょう。
家事をしなくていいこと。まぁ、手伝いはします。とはいえ、実家は僕の城ではありません。要するに動きづらいです。
家事をしなくて、楽でいいじゃんと言う方もいるかもしれません。実は一人暮らしをしてから、僕は結構それが嫌いじゃないことに気づきました。
自分のことは自分でする、それができる。文字通り生活している感じがする。理由はそんなところです。
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♯1
♯真っ先に考えること
嫌な人がいました。まず考えなければならないのは、誰にとっても嫌な人なのかです。
誰にとっても嫌な人ならば、考えても意味はない。時間の無駄となります。
こういう人には極力関わらない。
次に考えるべきは、なぜこの人は嫌なことをしてくるかです。理由なく嫌なことをしてくる人は、上記のタイプなので除外されました。
なので、残るは理由があって嫌なことをしてくるタイプです。
それは仕事が遅いだとか、態度が気に入らないだとか。変わり種には嫌なことをしているつもりがない、冗談だったなんてのもありそうです。結局は聞かない限り、想像はつかない。それが聞けないから困るんです。
仕事が遅いなら、それを改善すればいい。
これはパッと見簡単で、意外と困難な対処法です。そもそも仕事が遅い人は、大抵意図的に遅いわけではない。
しかも、一旦仕事が遅いと思われた場合、その人の心象をよくするにはハードルが一段と高くなります。
仕事を上手くできるようになることは、悪いことではないはず。環境を変えたいなら、頑張ってみるのもいいでしょう。
あえて、無理だと割り切って、できるだけ関わらないのも確実な対処です。
嫌なことをしているつもりがなかった場合。
自分は嫌に思うことだった。点で見ると嫌なことだが、前後を面で見るとそんなに嫌なことではなかった。この二種の場合です。
一つ目は例で言うとタバコを隣りで座れたら大丈夫か嫌か、そんなレベル。
二つ目は相手は自分を激励していた。教育しているつもりだった。そんな感じ。
しかし、極論なぜ嫌なことをしてくるか、考えること。それ自体が特に大事です。
理由があれば理不尽なことではないし、ましてそれが良い理由なら気休めになります。
さらに、自分なりの分析をすることで相手より現実では下に見られても、心の中では上位に立った気になれます。これは意外と大事なことで、人には大なり小なりプライドがあります。それを守るための策なわけです。
この場合問題になりそうですが、それを表に出すから悪いことになるのです。
心にしまいつつも、「お前のことはわかっているぞ、くだらないやつだな」とでも思っておきましょう。
間違っても表に出さないように。
♯注意すべきこと
注意点です。嫌なことをされるのはプライベートでもよくあります。仕事や学校だと、それが大体表面上の付き合いしかしていないから気に触るのです。あんまりその人に時間と心をさきたくないので、なんだこいつと思ってしまうわけですね。
プライベートなら気づきやすいものです。
人というのは愚かなもので、自分がされたら嫌なことを実は自分もしていたなんてことがあります。所謂ブーメランです。
自分を正当化するのは、いつだって自分自身です。自分だけが嫌なめにあっていると思っていると、痛いめに合う場合もあります。
自分なりの分析がかなりの的外れで、実はその人すごくいい人だったとかね。あとは寧ろ自分こそが職場や学校で、煙たがれるような嫌な人だったとか。
人を呪わば穴二つ。強く相手が悪いと決めつけては、結果かえって自分にひがあることになりやすいです。
そこで冷静かつ打算的に、謙虚な心で自分を顧みる必要があります。
古来から「自戒」というのは言われていることです。汝己を知れ、人のふり見て我がふり直せ…だとか。
明らかに自分にとって相手が悪い場合でも、思わぬしっぺ返しもあります。本当に嫌な人はそれを自分以外で表に出すはずがないです。保身に長けているわけですね。
物事は案外単純な場合もありますが、深く考えていて悪いことはないと思います。
その結果、その心が純粋なものではなくなることになったとしても。
♯じゃあ
これまでの対処法は言ってしまえば、何一つ成長がないものです。
人の言葉に耳を傾けず、自分は間違っていないと頑なに思うことなど……
自分の世界に籠っている状態です。
でも、これで鬱になったり、トラウマになることを防げるなら、僕はそれでいいと思っています。
ただ、見返してやりたいだとか、自分はもっとやれるはずだとか思うひと。
つまり、まだ元気なひと。
相手の言葉に謙虚さをもって、聞き入れて言葉を噛み締めましょう。
それがいい事なのか悪い事なのか、確かめつつ。
善意であれ、悪意であれ、その言葉を理解し考え行動すれば、きっといい方向に進めるはずです。
恐ろしいことにこれが正道であり、多くの人が歩んでいる方向なんですね。
自分にとっては嫌なことも、それを糧として成長する。
思うに、これがコミュニティに溶け込むってことかもしれませんね。
コミニュティは学校や社会(職場)のことですが、大体悩みのアレコレはそこに入った頃に起きやすいです。
そこで自分を守るために逃避を続けるか、これを試練として立ち向かうか。
コミュニティのなかで一際目立つというか、輝く人というのがどちらを選んでいるのかは分かりきったことです。
分かっているのに進めない、周りは先へ、そしてその背中を見つめるばかり。そのままでは認めることができない。
周りと自分の能力差は広がるばかり。
立ち止まること、なんて辛い……
やはり人は生きている限り、歩き続かなければならないのですね。
(PS: ということを僕は自分に言い聞かせる。
まったく本当に嫌だ。自分を助けるものなんて、自分しかいないじゃないか。
そんなの頑張るしかない、やるしかない。
よし、頑張ろう。頑張れよ自分。)
♯2
♯大人になるってことは何かを諦めるってこと
どこかで聞いたことのある、自分の考える真理のひとつです。
子ども頃はなぜか楽しかった。今思えば別に大したことはしていないのに。
それはきっと新しいものばかりだったからだと思います。あと、思い出補正。
歳をとることは大人になるということではないはずです。なぜなら、周りがそれを証明してくれています。まず決して自分もそれを認められない。
ただ歳をとるにつれて、楽しいということが年々減っていったことは確かです。
この頃から新しい発見が道端に落ちていることはなくなり、草葉の陰を探す毎日となりました。
世界は広い。新しさが尽きるはずがない。そう思います。
歳が若いときになくて、歳が経ってあるものにお金があります。
お金がないから新しいことができない。
そう考えたこともありました。
今、社会人になる手前、その考えも薄れつつあります。バイトをしていれば、段々と使えるお金が増えて、先が見えるわけです。
想像していたほど、新しさがない。
僕は諦めつつあります。言い換えれば、大人になりつつあるのかもしれません。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
僕はこう考えます。局所的にはいいことだが、大局的には悪いこと。
♯局所的・大局的、チカラの属性
ある人を見て大人だなぁ、そう思ったとき。それは局所的にはいいことです。
その歳で必要な表面的なスキル、寛容さや心配りなどを表しています。
つまり、常識ですね。
しかし、一方で童心を忘れない、子どもこころを忘れない。そんな言葉を聞いたこともあります。
大人でなければ考えつかない、どこか響くものがある言葉です。
大人と言われる歳、それがその心を忘れてはいけないと思っている。
必ず意味があるはずです。
僕はそれを発想力(idea)や生きる楽しさだと考えます。
案外子どもの方が発想の転換が良かったり、あらゆることに楽しさを見いだせたりします。それらは全て生きる力。
大局的に見て、それを忘れ大人になることは悪いことになります。
この二つの考えは矛盾しているようで、していないのが面白いですね。
また、そのバランスが難しい。
局所的な力、大人になる、常識を得る。
これは社会で必要な必須の力です。
これをないがしろにしては、絶対に上手くいかない。
ワーク(仕事)に比重のよった力に見えますが、ライフ(生活)にも関わるものです。
僕は今20代です。まだ、結婚していません。
それどころか彼女もいません。
女性というのは基本的に年上を好きになります。そうなるとこの大人になるということは、恋愛において重要な力となるはずです。
また、なんとなく常識が恋愛の一助となるのは誰しも分かることでしょう。
例えばなぜかたった一言が気に触り、顔を真っ赤に怒ってしまう。また、少し抑えつつも嫌味を吐いてしまう。
人間関係において、それを寛容さをもって許せるかは非常に重要です。
特に恋愛ではとても長い時、その人と過ごすことになります。
さて、では大局的な力、童心を忘れないこと、生きる力はどうなのか。
これはピーキーなチカラと言えます。
あれば、生きるか死ぬかの瀬戸際で生きることを選択できる。
人間的に見れば、とても面白い・魅力溢れる人に見えるはずです。
ただそこに偏れば、局所的には常識がかけることになるので、大きな失敗をしてしまうこともあるでしょう。
この場合の大きな失敗というのは頭に残りやすい。目に見える失敗のことです。
逆に局所的な常識に偏った人間というのも大きな失敗をおかします。
それは後になってものすごく後悔するような失敗のことを指します。
大局的な力、生きる力はピーキーと言いました。
それは難局を乗り越える力であって、人生において局所的で効果は大局的とも言えます。
それは前述したように発想からなる力だからです。
人というのは考える生き物。常に考え続けなければならないというのは、どこかで書いた覚えがあります。
しかし、発想というのは考えれば芽生えるものではありません。
偶然か必然か、天啓のごとく頭に浮かぶものです。
もう分かると思います。後になってこうすればよかった、あぁすればよかった。
そんな後悔あると思います。
それがなければ自分は大きく成長できた。
そんな失敗があると思います。
もしそれを乗り越えられれば、絶対に人生楽しくなる。想像以上の新しい発見となる。
二つのチカラをゲームで表すなら、ステータス極振りか均等振り。
全ステータス5%UPかLUCK30%UP。
そんな違いかもしれません。
まだ20数年生きる僕ですが、人生というのは選択の連続です。
また、その選択のハードルは少ししかない。5%のステータスUPでは届かなくても、30%のステータスUPなら届く。
そのくらいだと思っています。
♯どちらを選択する?
バランスよく二つのチカラ・属性を持てれば、それほどいいことはありません。
しかし、都合のよくそうなれる人はいません。
周囲を見ても同じ人はいないし、どの人もステータスが違うから興味をもてる。
同じじゃないから知りたくなるわけです。
じゃあ、自分はどうするか?
それはもう随分前から決まっています。
大局的な力であり発想・生きる楽しさを司る。童心・子どもごころを取りたい。
僕はどうしても新しさ・楽しさを忘れたくない。哲学的な生きる意味といった、人によっては不毛な議論を不要と捨てきれない。
楽しくなくては生きていけない、そんな人間なのだと思います。
まぁ、そうはいってもステータスを振る画面なんてない。
人生でいくつもある選択を進み、どのステータスかも分からないまま振るしかありません。
もしも一人に一回だけのチャンス・運命が自分に訪れるなら。
運命の岐路に立つ未来の自分に投資・応援するために、今の自分は余裕をもつ必要があります。
それは結局、地道に仕事を頑張るだとか普段の生活を健康に過ごすだとか。
多くの人がしているありきたりな、されど困難な。ある人は誰かのために、ある人は自分のために、ある人は……
そんなところに集約されています。
…さすがに一言一言で顔真っ赤にして怒り出す、(年齢的には)大人にはなりたくないな。
そうやって子どもっぽいところを削っていって、けれどどこかに残るのかもしれないね。