ボトルネックって

全部くだらない戯言。

カップラーメンは偉大な発明か、それとも?

一人暮らしをしていると、今日はカップラーメンでいいか。そんな風に思う毎日の連続だ。もちろん料理もするけれど。

 

なにせカップラーメンは3~5分でできる、お湯をかけて待つだけ。

涙が出るほど美味しいとは言えないが、企業努力とはおそろしいもので年々美味しくなっている気がする。

 

料理は正直面倒だ。献立を考えることからはじまり、買い物と調理、やっと食事をする。

一息つきたいところで、僕が僕に申し訳ないと釈明しつつ調理器具や皿など洗い物のはじまりだ。

これを毎日3食すると思うと大変だろう。

 

そう、それをカップラーメンは短縮できる。

なんということだ。早いところ休息や趣味に走りたい人間にとって、強力な味方といえよう。

 

また、僕だけかもしれないことが一つ。

料理してからの食事には、必ずご飯とおかずが必要だ。味噌汁も欲しいところ。

このフォーメーションは崩せない。 

 

つまり、それだけの手間がかかる。

こうした精神面で強いられ、当然肉体的に強いられるのが食事だ。

(なぜかカップラーメンなど麺類はそれだけでも違和感がない)

 

カップラーメン自体に目を向ければ、そんな家庭の協力な味方。そして、期限の長い保存食として世界的にも注目される食品である。

カップラーメンは食品における偉大な発明だ。

 

しかし、ふと思ったことがある。

カップラーメンは主に昼、一人暮らしならそこに縛られず、毎食いただける食品。

それはカップラーメンという選択肢に食事を縛られているのではないかと言うことだ。

 

考えてみればカップラーメンを食べなければ、当然なにかしら料理をして食事をすることになる。

僕はそんな手間や面倒を嫌ってカップラーメンを食べていたわけだ。

 

もったいないなと思った。

いつ死ぬかも分からない人生。もしかしたら最後の晩餐がカップラーメンになるかもしれない。

それでいいのかと真面目に思った。

 

その論理でいけば冷凍食品や惣菜品もなんとも言えない。好きなものを食べられるわけでなく、その場で陳列された商品に縛られているのだから。

 

料理をして食べよう!

なんて、もったいないことしているんだ。

思うだけなら楽である。

 

なぜ簡単な食事に走ったか。

やはり楽だということ。もはや献立をたてること時点で辛いこと。あんまり自炊して節約できている気がしないこと。

それぞれ問題点がある。

 

そして、前提条件として料理ができるか。

最も単純にして最高の至上命題である。

言ってしまえば僕はできる。

だから、もったいないなと思ったし料理もしている。

 

ここでちょっと物申したい。まず料理ができないとは何なのか。

調理は基本的に、茹でる・煮る・焼く・揚げる・炒める・蒸す・あえる。

何も難しいことはない。

 

僕がもっとも料理で面倒なのは洗いものである。それがなければ料理なんて毎日してる。

じゃあ、食洗機でも買えよ!と。

はい、買います。調理器具も洗える食洗機あるのかな……

 

 

さて、カップラーメンは偉大な発明か?

これは当然日本が誇る偉大な発明だろう。

 

ただ極端な話、日本人の料理レベル的なものが下がりそうではないか?

カップラーメン(即席麺)は安価だし、おいしくて早く食べられる。

だからこそ若いうちに料理する人間が減りそうな気がする。

 

いや、それは些細な問題か。確かに多少はレベルが下がりそうではある。

それでも料理をする人間はいなくならない。

また、料理ができる人間は価値が高い。

特に男性ならそういう女性への評価は高い。

料理ができる人の絶対数が減るなら尚更。

 

率直に言って、僕のお母さんが料理ができなかったら、それだけで反抗期に突入している。

 

僕が一番嫌だなと思ったのは即席麺が日本の食文化だとされることだ。

これから何十年~と経って日本の伝統的な食事です。そんな感じで即席麺がでてきたら嫌だ。

まぁ、流石にそれはないか。

 

とはいえ即席麺、カップラーメンと言っても日本料理における基礎。出汁の概念は取り入れられている。

その点で今後伝統料理となりそうと短絡的にも危惧してしまった。

 

また、食文化でいえばカップラーメン(即席麺)は日本において既に確かな位置にたっている。

スーパーに行き、チラッと他のカゴを見ればカップラーメン(即席麺)だらけだからだ。

もうその時点で僕は少し嫌になってしまっている。

 

もう世界的にも冷凍食品や調理済み食品が食事のメインとなる時代なのだろうか。

より安くより簡単に、家庭の負担を減らすという面では最もな話だ。

 

それでもスーパーに行ってカゴを見れば、今日の食事が材料で察せられる。そんな世界の方がなんだか温かくはないだろうか。

 

いずれにしてもこうした調理済み食品関係は、食文化の新たな創造者とも破壊者ともなりそうだ。

 

 

 

♯本題からそれた話

……こんなに即席麺が日本で流行ったのって、やっぱり中流とも言えないほど、貧乏になっているからだろうか。

即席麺はとにかく安く、保存もきく。

昼だけでもカップラーメンとかにしとけば、食費は随分と浮く。

 

即席麺の商品的価値は置いておいて、その裏に深刻な問題が迫っているのかもしれない。

 

一体なにが問題なのだろうか?

インフレとかデフレなど、確かな問題か。物価の上昇や賃金の停滞など個別の問題か。僕的には後者だと思うが、なんとも言えない微妙な状況とも思う。

 

社会問題というのは、国民がその状況に気づいてから、凄まじい速度で深刻化する。

狂乱物価と呼ばれたような状況のことだ。

 

まぁ、既に何らかの問題の芽は出ていることは確実です。

しかし、国民が「あんまり景気よくないなぁ、でもこんなものなのかなぁ」そんな風に思っているうちは大丈夫でしょう。

いつだってヤバイと思ったときが、手遅れなときです。

 

結論としては

1. 問題は発生しているものの、それがどういう状態になっているかは分からない。

誰もその全貌を把握できていない。

2.全くの気の所為で、未だ日本は恥じることない先進国である。

3.現在日本は行き詰まりを感じる。しかし、それは産業が過渡期に至っている証拠だ。

いずれ成長は一気に加速する。

 

2は苦しい。1か3。

1はなんとも。問題に対して後手に回るのはよくあること。どれだけ対策できるか。

3は投資を集中させるか、分散させるかで……

 

この話はまた今度にしましょう。

 

 

 

 

 

 

ふぅ……じゃあ、カップラーメン食べようかな。 これがたまに食べたくなる。ジャンクフード的な感じでね。

え?カップラーメン批判してるんじゃないかだって?

まさか!常日頃お世話になっています。

もちろん調理済み食品も。

 

ただ僕の持つ逆張り精神がアレルギーを起こしたといった感じです。

限りある日数を大切に、食事に関心をもっていきたい。

それにはやはり料理は自分でするべき。

現在一人暮らしでの教訓をもって、積極的に料理しています。

 

今回の話の影でふと思ったことがあります。

人体って食事、食べ物で構成されているじゃないですか。

良質な物を食べてる人って、良質になったりするんですかね。

絶対どこかの誰かが研究してそうな話です。

 

富裕層は富裕層に貧困層貧困層みたいな連鎖と同じように、食事によっても違いがあったりして……

まぁ、でも今どき富裕層の方でもファミレスが好きだったりするらしいですね。

とはいえ、やっぱり子どもは環境によって性格や育ち方が当然変わるわけです。

本当のところどうなんでしょうか。

 

一つ言えるのは無理はしないことですね。

文字通り、生きる場所が違うのだから。

「偃鼠河に飲むも満腹にすぎず」です。

 

イクラは人工イクラと同じではない、キャビアは人工キャビアと同じではない。

 

現代では高価な食べ物も工夫して、新たにそれっぽい安価な物で代用し商品化されています。それは格差をなくそうという、一業界からの社会貢献なのかもしれません。

ならば、その理念は素晴らしいものです。

 

しかし、そのアプローチの仕方を疑問に思うのは僕だけでしょうか。

格差をなくすということは、平等にするということです。

先のイクラと人工イクラの例では平等(同じ)になっているのでしょうか?

 

明らかに無理をしている。

格差是正のアプローチが誤魔化しからはじまっている。

結局、物自体は景品表示法によって本物・偽物は区別されています。

 

また、ふと思ったのですが、今では別に偽物だったとしても、特に気にせずそれはそれとして食べるのでは?

高価だから食べられないものを、安価代用品でその需要すらも代用させる。

それを景品表示法のない時代に。

かなり危ない橋を渡った販売戦略ですよね。

あれ?これ社会貢献?

 

平等というのは難しいですね。

上か中央値か下か。どこに合わせるのかも問題です。

 

ただ僕は平等なんてないと思っています。

現実を見れば今自分のいる位置が、自分の生きてきた結果なのですから。

物も人も個別に価値は紐付けられている。

その価値を内部または外部的要因によって、見失う病を僕は平等と呼んだ。