ボトルネックって

全部くだらない戯言。

♯0.あけおめ(略)が言いたくない / ♯1.無課金と課金は酷く虚しい /♯2.愛はサービス? / ♯3.強制(同調)圧力に抗え! /の4本

♯0.あけおめ(略)が言いたくない

下書きが溜まっていく一方、いつの間にか新年を迎えていました。

失礼な話、この歳ではもはや新年にたいして特に何も思いません。

晦日は12月31日で元日は1月1日、それだけの話。

 

なんてことない毎日、その一つにすぎないわけです。

ならば、あけましておめでとう!HAPPY NEW YEAR!などとは言いたくない。

これはハロウィンやクリスマスにも言えることですけどね。

 

屁理屈?斜に構えてる?

他の理由は…秘密。

 

さて、あけましておめでとう。これは言わなくてはならない。

なぜならそういう礼儀だから。

仕方ない…今年なんてことない日に、僕はあけましておめでとうと言います。

社会というコミュニティに所属する以上ね。

 

人には人の特別な日があります。

それは何年の何日、この日なら何年でも祝う。

そう、誕生日や結婚記念日とかのこと。

 

それぞれの人がそれぞれの日に祝えばそれでいいと僕は思う。

そう!つまり、皆祝う特別な日それが元日。

やはり、僕にとっても特別な日?

 

いや、騙されない。確かに過去の新年では、祝うべき年はあった。

しかし、今年は特に何も無い。

 

まぁ、でもありがとうを恥ずかしがる時期は終わった。

あけましておめでとうを、恥ずかしがる時期も終わらせるべきなんでしょうね。

 

「あけましておめでとうございます」

 

僕自身の何でもない日に、心にもない祝いの言葉を言う恥ずかしさと戸惑い。

それが秘密、我ながら…変なヤツ?

 

―― 社交辞令御免

 

 

 

 

♯1.無課金と課金は酷く虚しい

無課金だからすごい、課金してるからすごいのは当たり前。

無課金をやたら持ち上げる、課金を羨み見下す。

スマホゲーでありがちなやつです。

 

でも、これは結局のところ無課金も課金も関係ない。

要するに持ってないキャラを持ってるのが羨ましい。それだけ。

転じて、自明の理ガチャは悪。

諸悪の根源、ガチャって最悪だよ。

っと言うのは個人的意見。

 

無課金と課金なんてどうでもいいことだ。

ゲームというのは楽しむもの。

無課金であれ、課金であれ、楽しめればいい。

 

まぁ、極論サービス終了したり、楽しめなくなったらゲームは終わり。

無課金も課金もそれは同じ。

夢が覚めるとはこのこと。

 

より考えると、ゲームは時間と金を使う。

無課金は課金より時間を使い、課金は無課金よりは時間を使わないが金を使う。

それは、無課金は課金より強キャラを揃えられないはずだから。逆に、課金は無課金よりも時間を使わず進められるはず。 

 

「時は金なり」という言葉に則れば、これもまた無課金と課金は同じ。

 

時給という言葉がある。

ならば、時は金になる。金は時になるか?

これは微妙な話。

 

例えばよくゲームの強いアカウントが売っていたりする。

より強いアカウントにするには、時間と金をかける必要がある。

しかし、売るならあまり金はかけたくない。

そうなると時間を主にかけることになる。

 

売る側は時間の凝縮されたアカウントを送る。そして、金を受け取る。

時は金となった。

 

買う側はそのアカウントを育てる時間を使う必要がない。アカウントを受け取り、金を売る側に送る。

このとき、金は時となった?

 

ただゲームという性質上、楽しめなければ意味が無い。

元々強いアカウントでゲームをしたところで楽しいか?それは個人による。

 

結局、ゲームは楽しんだ者が勝ちかもしれない。

無課金で金を使うというストレスをなくすか、課金で時間を使うというストレスをなくすか。その違いでしかない。

 

ところで、この場合時間と金の価値はイコールでなければならない。

そのままの意味で考えると時間でお金は得られるが、お金で時間そのものは得られない。

 

また、その価値は不変なのかも考える必要がある。

金の価値は言うまでもなく変わる。

様々な事情で日々。

 

時間の価値も変わる。10代の1年間、20代の1年間は価値が違う。医療技術の進歩によって増えた寿命によって、過去と現在の1年間の価値は違う。

 

だから、もし時間と金の価値がイコールなら無課金と課金は同じ。

ガチャに天井という概念があったとしても。

 

無課金と課金で本当の意味で差があるとするなら、やっぱりそれはリアルラックとプレイスキルの違いだろう。

無課金も課金も支払うべき代償を払いつつも、ゲームを楽しんでいる。

人生における楽しみ、それが代償の代価。

 

時間を払うか、金を払うか。どちらを重く感じるかは人それぞれ。

時間は大事だ。しかし、金がなくては明日も迎えられないかもしれない。

 

なら、金の方が大事か?

もしも自分に残された時間の総量が分かればどうなる。死者には金は必要ない。

きっと死後の世界の通貨単位は別にある。

 

そうだな……スマホゲーってなんだろう。

この世界には人から時間を奪う存在が多すぎる。

その中でもスマホゲーって、スマホってさ。

もしかして悪魔なんじゃ?

 

無課金と課金は等しく虚しい。スマホゲーは虚しい。

 

―― 時間と金、ご利用は計画的に

 

 

 

 

♯2.愛はサービス?

愛とはなにか?これについて答えられる人はいるだろうか?

あらゆる名言のうちに愛に関するものは数多くある。ただどれも正解ではないと思う。

(とはいえ、心には響く)

愛とは言葉と行動がともなって初めて証明されるからだ。当然その場限り。

 

つまり、愛はサービス。

間違いなく必然で意図的で、計画的な表現である。

 

さて、愛がサービスだとする。

しかし、サービスなら金銭の授受必要、愛ならば無償。ここに矛盾がある。

 

それでも愛は不定形なのだから、その仕組みも既存のシステムで説明できない。

 

だから、愛の代価は金銭もしくは気持ちなのだ。

 

これじゃあ社会は愛でいっぱいみたいじゃないか!

気持ち悪いな。

 

あぁ、でも愛がサービスならまるで心温まるものではないな。

 

なんならレンタル彼女とかも、この論理で当てはまる。

いや、むしろレンタル彼氏・彼女の創設者が愛はサービスだと考えているまである。

 

そうだな。このビジネスモデルはおかしなものではない。

 

あぁ……そうか…逆説的に考えれば愛って○万円なんだ。

 

……いや、なんか違う?

もっと言いたかったことがあった気がする……

もう忘れちゃったよ。

そういうことってありますよね。

でも、閃きは一瞬なのでこれで終わり。

 

 

―― 次回、愛はプログラムでお会いしましょう

 

 

 

♯3.強制(同調)圧力に抗え!

日本は同調圧力が強い、もはやそれが文化と言えるほどに。

そう聞いたことはありませんか?

 

僕はぶっちゃけどういったことが同調圧力なのか分からない。

(なら、的はずれなこと言うんじゃ?)

 

まぁ、仮にこれを周囲の人と同じことをさせようとする圧力と定義する。

しかし、それでもいまいち分からない。

 

そもそも同調圧力の何が問題かというと。

周囲と合わせなければならないストレスや強く個人を主張できない窮屈さにあると思う。

逆に言うとそれを同調圧力と感じなければ問題ない。また、際立った個性のない人間も問題ない。

 

僕の場合は…嫌になりますね。

だって同調させるって強制と同じだから。

あれやれこれやれという空気醸し出されて、ムカつかない人間はいない。

 

でも、おかしいだろ!

とは言わない。

これもまた同調圧力に含まれる属性の一部分かもしれません。

まぁ、全く言う必要はない。

 

今回のテーマで言いたいこと。

同調圧力に抗え。

これは別にそれに対して発狂しろってわけじゃありません。

 

同調圧力に抗うということは、個人(個性)を大事にするということ。

同調のあれこれは多数派の意見です。

それに反する少数のままでいて何が悪い。

 

多数派ということは優れたコンテンツであり、便利なもの、誰もが好むもの。

もしくは逆に誰もが避けられないこと。

そういった属性を持っているでしょう。

(プラスとマイナスの両面)

 

さて、そうしていると1番キツイのが同調者たちから見ると、異端だということですね。

何もおかしいことないのに、腫れ物扱いされたりね。

 

同調に屈しない!と思っておきながら、本当に異端者だったら笑えるけれど。

だから、そういう意味でも個人(個性)をしっかり持っていても喧伝しない方がいい。

 

あぁ、だからなのか。同調圧力って社会に対する処世術なのかもね。

同調の中にはその通りなこともあるし。

もちろん間違っていると思えることもある。

でも、周囲の人に腫れ物扱いされない、キチガイ扱いされないようにする。

そんな社会集合体による粋なアプローチかもしれない。

 

僕としてはそれでも個人(個性)を強くもったほうがいいと思う。

同調圧力に屈するとは考えることをやめるに等しい。

それはあまりにも危険だ。

なぜなら結局、自分に対して責任をとれるのは自分だけなのだから。

 

 

 

♯3 α

同調圧力かどうか知らないけれど、こういう話はどうだろう。(仮に強制圧力と呼ぼう)

 

AはBとご飯に食べに行った。Aは食べられる分だけ。Bのことは知らない。

当然Aは自分の頼んだ分、食べきった。

結果としてBは食べきれなかった。

そして、Bはこう言うんだ。

「俺もういいや、あぁでもこれじゃあ余っちゃうな」

どうだろうか?Bが食べない限りこれは残される。Aは嫌々食べなければならないハメになる。

残せばいいというのは簡単だ。

けれど、神経質な人にとっては大問題だ。

本当に嫌に気分になる。

 

これは食事にも仕事にも、なんにでも当てはめられる問題。

つまり、他人の尻拭いをさせる空気感。

また、厳密に言うと「お前がやらなきゃ自分がやることになることを知っていて、それを言っているのか問題」である。

 

 

関連理論で自分が頼んだ料理を食べたがる人(=☆とする)を説明できる。

食事とは自分が気持ちよく食べられる分で食べたい料理を食べることだ。

 

☆は一般的には人が食べているものを、偶然食べたがってしまうと解釈される。

しかし、人の胃は個人差があれど限界がある。

メニューには複数の選択肢がある。限界分しか頼めない。ただ☆はそれを食べたかったのだ。でも、選んだ料理を食べれば満腹になってしまう。

それでも食べたい。

だから、一口食べることで満足を得ようとしているのだ。

 

☆は全く可愛げのない狡猾な思考であなたの料理を奪おうとしている。

あえて一言でいうなら、いいとこ取りしようとしている。

ある種上記の理論の更に先をいった、効率化させた存在が☆なのである。

 

こういった人間はどういったときでも、あなたをカモにして自らの満足をひたすら追求する。

誰かの幸福を奪うことに躊躇がないのだ。

☆をただ可愛い人、お茶目な人、そんな風に思っていると足元をすくわれるかもしれない。

※前提条件:相手が他人であること

 

 

♯3 β

同調圧力とは過去の経験を元にした多数派による意見集合だ。

これをふまえて僕はマニュアルという言葉を連想した。

 

マニュアルとは誰もがその通りに行動すれば、理論値通りの現在最も効率的な結果を残すことのできる一連の流れを記したものだ。

この現在というところが曲者である。

 

マニュアルは完全ではない。しかし、何もできない人間からすれば行動指針が明確な神に等しい。

それを使う側の多くの人間は何も考えていない。ただマニュアル通り行動するだけだ。

しばしばマニュアル人間とも、考えることをしないの意味で揶揄される。

それは個人にとって何の生産性も成長もない危険性を示唆しているわけだ。

 

さて、僕の連想したマニュアルと同調圧力の意味は似ていないだろうか。

過去の経験を元にした多数派による意見集合である。

 

同調圧力をマニュアルとするなら、あまりにも洗練されていない。ただの先例だ。

それでも所々納得できる例、ある程度の強制力がある。

 

つまりは、飲み会で最初の1杯をビールとすることや有給を皆取っていないから取るべきでない。

マニュアル主義のこういった時にはこうする。

そうした同調圧力がマニュアルとなってしまうのではないか。

 

今現在おかしいと思われる同調圧力の例が、今後そう考えられなくなるのではないかと危惧している。

 

人間の特徴は考えることだと思う。

人間からしたら同じ顔の人間はいないと思うが、人類以外からみれば違いは分からない。

するとやはり人間の唯一にして無二たる特徴は考えることとなる。

 

その人間が考えることをやめたらどうなるだろうか。

決してマニュアルが悪いというわけではない。むしろ失敗を避ける良いシステムだ。

しかし、完全ではない。

 

世界のシステムがマニュアル化されたとしても、人間は考えることをやめるべきではない。

無知からマニュアルを用いてアドバンテージを得ていると勘違いしてはいけない。

むしろ自分で改良・改革すると、常に考える必要がある。

 

同調圧力に屈しないために「考える」としたのはそういう意味もある。

おかしいものはおかしいとしつつ、自分を見失わないために。